1月6日(日)夜8時から、2019年のNHK大河ドラマ『いだてん』~東京オリムピック噺(ばなし)~の放送がスタートする。
2年後に迫った東京オリンピックを盛り上げようと、NHK大河ドラマ「いだてん」主人公 金栗四三(かなくり しそう)の激動の半世紀を探ってみた。
*偉大なる日本マラソンの父「金栗四三」の遍歴!
玉名市名誉市民第1号である金栗四三は、マラソン選手として3度の世界記録を樹立し、日本人で初めて、第5回オリンピック・ストックホルム大会に出場。

大正3年(1914年)第2回陸上競技会選手権で世界記録を樹立しゴールする瞬間
さらに、第7回アントワープ大会・第8回パリ大会と3度のオリンピック出場を果たした。
また、日本初となる駅伝「東海道五十三次駅伝」や、今や正月の風物詩となり、日ごろあまり陸上競技と縁のない人にも深い感動をあたえる「箱根駅伝」は四三の発案である。
マラソン普及のため、下関~東京間・樺太~東京間・九州一周を踏破し、全国走破を達成し、生涯に走った距離は、なんと25万キロ・地球6周と4分の1という驚異的な距離です。
*マラソン金栗四三の誕生
四三は、明治24年(1891)8月20日、玉名郡春富村で、造り酒屋を営んでいた、父信彦・母シエの間に8人兄弟の7人目として誕生した。
吉地尋常小学校を卒業したあと、10才で玉名北高等小学校に入学。
往復12キロの道のりの通学を毎日一里半走ったのが、マラソンの基礎になっていた。
明治38年(1905)、玉名中学校(現玉名高校)に進学し、学校敷地内の寄宿舎で生活。

四三が通っていた玉名中学校(現玉名高校)
クラスで1、2番の優秀な成績で特待生として授業料免除を受けていた。
*マラソン競技との出会い
明治43年(1910)、東京高等師範学校(現筑波大学)に入学した四三は、校長の嘉納治五郎(講道館柔道の創始者)に才能を見出され、日本のオリンピック初参加に向けた国内予選会で、2時間32分45秒を記録。
当時の世界記録を27分も縮める大記録でした。

オリンピック国内予選会優勝の記念写真(ゼッケン51番)(右端)
*ストックホルムオリンピック出場

ストックホルム大会開会式入場行進で「NIPPON」のプラカードをもつ四三さん
明治45年(1912)、日本人初出場のオリンピック第5回ストックホルム大会は、猛暑に見舞われ、マラソン選手68人のうち34人がリタイアする過酷なレースとなり、四三も日射病により、26.7キロ地点で、コースをはずれ林の中に消えてしまい、地元の人に助けられた後、無断で宿舎に帰ってしまった。
のちに金栗四三という選手は、スウェーデンでは「消えた日本人」、「消えたオリンピック走者」として語られるようになった。
*オリンピック出場後
東京高等師範を卒業、研究科へ進んだ大正3年(1914)、22歳の時に親戚だった、玉名郡小田村池部家の養子となる話がまとまり、4月10日に石貫村の医者の娘、春野スヤさんと結婚。
その後、東京府女子師範学校などで、地理の教師として教壇に立ちながら、さらに走りに磨きをかけた。
*3回目のオリンピック大会も途中で棄権
こののちも、挽回を期した大正5年(1916)、第6回ベルリン大会は、第一次世界大戦のために中止、大正9年(1920)、第7回アントワープ大会では、優勝を期待されながらも16位と惨敗。
大正13年(1924)、第8回パリ大会ではすでに33才、ランナーとしての円熟期を過ぎ、32.3キロ地点で棄権。
悲運のオリンピックランナーとして語り継がれていた。
*日本のランニングシューズの原点、「金栗足袋」を開発
当時は運動靴というものはまだ無く、地下足袋のような履き物で走ったそうです。
オリンピック出場後、東京の足袋屋、ハリマヤ黒坂親子に頼んで、足袋の改良に取り組み、ハゼ(留め金具)をやめ、甲にヒモが付いた型へと変わっていった。
ストックホルムで見た外国人が履く、ゴムを底に付けたシューズがヒントとなり、ゴム底の「金栗足袋」を開発。
多くの日本のマラソン選手が「金栗足袋」を履いて走った。
*日本のスポーツ教育のさきがけ
3度のオリンピック出場で見た、世界のスポーツ競技の水準は想像以上だった。
世界のスポーツの状況を目の当たりにした四三は、日本でもスポーツを広めなければならないと決意。
とくに、女子も参加してスポーツが盛んな、ヨーロッパでの光景に感銘を受け、将来母となる女学生の心身を鍛えることは、国の重大事であると指摘した。
1921年(大正10年)、東京府女子師範学校に奉職すると、初めての女子テニス大会・女子連合競技大会を開催。
大正12年には関東女子体育連盟を結成するなど、女子体育の振興に力をいれていた。
また、競技会や運動会に顔を出しては、マラソン普及に努めた。
暑さに強くなるように、真夏の房総海岸での耐熱練習を繰り返し、心肺機能を高めるため富士山麓での高地トレーニングを続けた。
日本体育・マラソン普及のため、下関―東京間(大正8年)、樺太―東京間(大正11年)、九州一周(昭和6年)を踏破、全国走破を成し遂げた。
また一人ではなくチームで長距離を走るため、駅伝を発案。
日本初の駅伝東海道五十三次駅伝(大正6年)や、箱根駅伝(大正9年)を企画。
箱根駅伝は、正月恒例の大会となっている。
現在のマラソン界につながるあらゆる試みが四三の発案です。
*マラソン普及と体育振興に尽力
昭和6年(1931)、39歳で故郷玉名(現玉名市上小田)に帰り、学校対抗マラソン大会や駅伝競走をするなど、県内外においてマラソン普及に努めた。
また、昭和11年日本での初オリンピック準備のため上京し、開催準備に奔走します(昭和13年第12回オリンピック東京大会返上決定)。
昭和20年(1945)、再び帰郷、熊本県体育会(後の熊本県体育協会)をつくり初代会長に就任。
第1回県民体育祭、第1回金栗賞朝日マラソン(昭和49年福岡国際マラソン選手権大会となる)。

東京オリンピックの年、昭和39年(1964),国立競技場で少年少女と走る金栗さん。
*55年目のゴール
しかし、晩年になっても四三の心残りは、初めてのオリンピック、ストックホルム大会で途中棄権したことだった。
ストックホルム大会から50年目の夏、昭和37年(1962)、にスウェーデンの新聞記者が「消えた日本人」の謎を解明するため、玉名の自宅で金栗を取材。
謎を解き明かした取材結果は、スウェーデンの新聞やテレビで大きく紹介された。
四三は、「長い道のりでした。その間に妻をめとり、子ども6人と孫10人ができました」と話していた。
この記録は、世界で最も遅いマラソン記録として、語りつがれている。
2012年7月には、ストックホルムで「五輪100年記念マラソン大会」と、金栗四三の功績をたたえた、顕彰銘板の除幕式が開催された。
*大きな功績を残した人生
金栗四三は、期待を背負って出場した、オリンピックで結果を残せなかったが、日本初の大きな国際大会への参加から得た教訓を生かし、その後の人生において、マラソン界の発展と日本スポーツの基礎を築くことに奔走した。

昭和30年(1955)紫綬褒章受章
「体力・気力・努力」の精神のもと、誰もがスポーツを楽しむ、日本をつくることに生涯をかけたのです。
晩年も各地のマラソン大会へ出かけては、選手たちの激励やスターターをつとめ、人柄が伝わる温和な笑顔でレースを見守っていた。
四三が歩んでこられた道、その精神「体力・気力・努力」を残し、昭和58年(1983)11月13日、92才で永遠の眠りについた。

晩年の金栗さん
*まとめ
お恥ずかしいながら、私も還暦から始めた一ランナーとして、金栗四三さんという偉大なランナーの存在を今回初めて知りました。
日本人として初めて外国へ行って、オリンピックに参加したこと自体、時代の先駆者として素晴らしいことだと思います。
「いだてん」という大河ドラマを見て、四三さんの人生観を少しでも取り込み、今後の糧にしていきたいと考えています。
引用元:玉名市 HP より